台湾は「りゅうきゅう」だった―北京歴史博物館にて
2012年9月 6日 11:54

このブログで尖閣諸島問題を議論するつもりはないが、1992年に北京・天津を取材に訪れ休日に北京の歴史博物館を訪れた時のこと。ここで、台湾はかつて「りゅうきゅう」と呼ばれていたことを知った。天安門広場に面した歴史博物館は、隣接する革命博物館と同様、中国4000年の歴史を表す展示物を公開している。この博物館で、竹に書かれた象形文字や、古い壺や陶器などと並んで、ある地図に興味を持った。

 

唐の時代、明、清の時代、中華民国、中華人民共和国、それぞれの時代の地図があった。注目したのは、唐代末(874年~880年)に現在の台湾の形の島が「流求」と表示されていたのである。明らかに「りゅうきゅう」と読めるだろう。これが南宋の時代(1127年~1279年)の地図でもやはり「流求」と呼ばれていた。

 

元の時代(1271年~1368年)の末期の地図(1357~1359年と表示)を見ると、台湾を「瑠求」と呼んでいた。これも日本語で読むと、「りゅうきゅう」と読める。このことから、台湾は琉球王国の一部だったのではないだろうか、という推理が働く。琉球とはもちろん、現在の沖縄のことである。

 

さらに、明の時代の1405~1433年の地図を見ると、大陸の福建省と現在の台湾との海峡が「台湾海峡」と表記されていた。そして明代末期の1644年になって初めて、現在の台湾は「台湾」と呼ばれるようになった。つまり、台湾という名称は江戸時代に入ってから使われている。

 

琉球王国は、その後日本の薩摩藩によって支配され、明治に入り征服された、とされている。薩摩藩が支配していた時、琉球王国は清国にも朝貢していた。つまりは二重に支配されていた。その後、沖縄が日本に組み入れられた時には清の力はなく、日本のものになった。現在の台湾は、すでに台湾と呼ばれており「りゅうきゅう」ではなかったようだ。

 

尖閣諸島は琉球王国に組み入れられていたと言われている。だとするとやはり尖閣諸島は日本のものであり、台湾のものかもしれない。しかし、どのように見ても中国のものではない。今の中国の言い分は、尖閣諸島は台湾のものであり、台湾は中国のものだから、尖閣諸島は中国のものだという、三段論法である。極めて無理がある。しかし、台湾のものと言われると、そうかもしれないような気がする。もちろん、日本のものという論理も間違っていない。この辺りはグレーゾーンになっている。だから尖閣諸島問題が東南アジアで起きている。

(2012/09/06)