二人の半導体出身者が国立大学のトップに就任
2018年4月 8日 22:33

この4月から、半導体研究の教授が2名、相次いで国立大学のトップに就いた。一人は、東京工業大学の学長に就任した益一哉教授、もう一人は東北大学の総長に就任した大野英男教授だ。二人とも長い間、半導体研究に携わってこられた。

 

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1 半導体出身2人が国立大トップに就任 東京工業大学益一哉学長(左)と東北大学大野英男総長(右) 出典:東京工業大学・東北大学ホームページから

 

産業界やマスメディアでは、半導体を悪者にする風潮がこれまであった。特に電機・通信関係の大手企業のトップは、半導体が業績不振だから電機の業績が不振だった、と言い、新聞などはそれをそのまま記事にした。そして半導体部門を切り離した後の業績は大赤字で、リストラに走ったのが電機の現状だ。つまり、業績の悪いのは半導体と決めつけたものの、本体の電機の業績が悪かったことに後になってようやく気が付いたのである。

その時はもう手遅れであり、2008~2009年のリーマンショックの洗礼を受けていた。しかし、国内電機大手は、テレビ事業のアナログからデジタルへの変換という「ボーナス需要」をもらったため2010年は回復できた。しかしテレビのデジタル化が一巡するとやはり一気に低迷した。ここで多くの電機はリストラを始めたが、それに出遅れたのがシャープであり、東芝だった。

 

東芝の幸運はメモリ

東芝は原子力部門の買収という重荷を背負い、二重苦に陥った。ところが、東芝を救ったのは半導体メモリ部門だった。東芝だけがフラッシュメモリを製造しており、これが思いの外、当たった。東芝の利益をメモリ部門が稼いでいたからだ。

東芝では、1984年、1985年と続けて米国の半導体学会(IEEE International Electron Device Meeting)で、舛岡富士雄氏が2種類のフラッシュメモリを発表した。舛岡氏はフラッシュメモリの基本特許をきっちり抑え、東芝に利益をもたらした。そのうちの一つNAND型が大容量の記憶ができることから今日の隆盛を誇ることができるようになった。1984年にNOR型フラッシュを発表した時、日経マグロウヒル社(現在の日経BP社)に在籍していた筆者は舛岡氏の発表を聞いていた。彼は日経エレクトロニクスの姉妹誌であったElectronics誌の編集記者からインタビューを受けた。その記者はIntelにもコメントを取り、大した技術ではないというコメントを掲載した。Intelは、東芝に対して油断させるためにそのようなコメントをあえて出し、自らはNORフラッシュメモリを必死に開発しており、1年後世界に先駆け、NORフラッシュの開発を発表した。

舛岡氏は、東芝がこのフラッシュメモリを評価してくれないことを筆者に嘆いていた。彼は東芝でフラッシュメモリの実用化を目指して開発を進めていたが、結局実用化の許可が下りなかったため、東芝を退社し、東北大学の教授に転身した。当時の東芝はDRAM製造に必死で、確かに世界のトップメーカーにはなったが、フラッシュには見向きもしなかった。

ところがDRAMのトレンドが徐々に変わっていったことに東芝だけではなく、NECも日立製作所も大手半導体メーカーは気が付かなかった。コンピュータの世界では、メインフレームからオフィスコンピュータ、ミニコン、ワークステーションなどへとダウンサイジングへと動いていた。最終的にはパソコンへと行くが、その動きをきっちりとらえていたのが実はMicronだけだった。Micronのトップに取材した1984年、IntelAMDNational SemiconductorMostekMotorolaなどDRAMメーカーはことごとく、DRAMから撤退した。当時IntelCEOであったRobert Noyce氏は東京で記者会見を開き「DRAMはもはやコモディティになったからやめる」と述べていた。そのような中、無名のMicronDRAMメーカーになる、と名乗りを上げた。Micronのトップが日本に来るという情報を聞きつけ、取材した。

MicronDRAMと言っても自分たちはメインフレームを狙わない、10年後のパソコン時代の到来を狙う、と述べた。このためDRAMには、チップの増大を招く冗長構成は入れない、アルファ線対策は取らない、と述べ、ひたすら低コストで作ることに集中した。現実に、レイアウト上の回路を密に詰めるコンパクション技術を使う、微細化する、工程数(マスク枚数)を減らす、という3つの低コスト技術を開発していった。実際にチップを量産できたのは10年後だった。

もう一つのエピソードがある。韓国の巨大企業SamsungDRAMを始めたのは1985年以降だ。当時世界トップの日本企業を回り、ライセンスをお願いした。しかし日本のDRAM企業は全社とも断った。そこでSamsungMicronから特許を取得し、開発を始めた。エンジニアは結局日本から採用できなかったため、土日のアルバイトで毎週韓国に来てもらい、一人当たり毎月40~50万円を支払った。この時に韓国に渡ったエンジニアは多かった。日本の企業がこの秘密の行動を察知した時は社員のパスポートを預かる、などの措置を取ったがやはり遅く、Samsungに転職したエンジニアも多かった。

そして満を持して最初にDRAMを安く出荷したのがMicronではなくSamsungだった。当時の日本のDRAMメーカーのトップにパソコン用のDRAMを開発しないのか、と聞いたところ「我々は安売り競争に巻き込まれたくない」とはっきり答えた。ダウンサイジングのトレンドを知らずにメインフレーム用の高価なDRAMを日本メーカーはひたすら作り続けていたのである。だから競争で負けた。

日本はDRAMでの市場シェアが落ちていく中で、DRAMから撤退しシステムLSIへと舵を切った。それも日本の半導体メーカーが全員システムLSIへと移ったのである。この選択も失敗したために今日の低迷を招いた。唯一、東芝だけが一応メモリは続けておきたい、と考えた。東芝が社内を探してみると、たまたまフラッシュメモリの特許を持っていることに気が付いた。そしてNORNANDのフラシュメモリを生産し始めた。

市場はいったいどこにあるのか。東芝は非常にラッキーだった。最初の市場はIntelが開拓してくれた携帯電話だった。アドレス帳やCPUBIOSなどに使うNOR型が使われていた。しかし、写メールをはじめ写真までも取り込むようになったら、高速低容量のNORではなく、低速だが高容量のNANDへの需要が高まってきた。これによってデジタルカメラがNANDフラッシュの市場として開けた。さらにiPhoneの登場によって、スマホのメモリ容量増大へのNANDの需要が高まった。現在は、金融市場でHDDに代わる半導体ディスクとしてNANDフラッシュが求められるようになってきた。NORよりは遅いとはいうものの、HDDの機械的な動きに比べると極めて速い。金融株式市場では高速トレーディングが求められている、だからNANDフラッシュの需要は確実に出ている。当分(4~5年)はNANDフラッシュ市場が縮むことはない。その先はまだ見えていない。東芝は自分で市場を開拓しないまま、大市場に投入できたという非常にラッキーな面が続いてきた。次世代の製品やサービスを今開発していなければ東芝メモリの将来は細くなる。経営者の腕の見せ所だ。

半導体は今やGoogleAmazonなども作り始め、AppleはパソコンMac用のCPUまで開発しようとしている。半導体のユーザーだったHewlett-Packard EnterpriseNokiaまでも半導体を作り始めた。半導体がシステムのキモを握ることを知っているからだ。日本でもインターネット金融のGMOインターネットが自社製チップを持っている。国立大学のトップに半導体出身者が就任したことは喜ばしいが、産業界なり、経済界がそれを認識していなければ、極めて嘆かわしい結果が待っている。これから大成長が期待されるAI5G、クラウド、IoTなどに半導体チップは欠かせないからだ。

2018/04/08